西安金橋国際旅行会社と陝西友聯国際旅行会社のブログ

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約300年にわたり世界帝国の首都として栄えた「長安」とはどのような都だったのか?

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中国だけでなく世界の中心として盛えた大都

 

 隋は中華の統一と大運河の開削という大事業をやり遂げながら、人民の大量動員と酷使が仇となり、実質上わずか2代で滅亡した。幸か不幸か、群雄割拠の期間は思いのほか短く、唐の李淵(りえん/高祖)と李世民(りせいみん/太宗)の2代がかりで、中華は再び統一された。
 どこを都にするかは問題だったが、唐では隋と同じ防衛の観点に加え、北方民族の君主も兼ねたこと、西域との交通の利便なども考慮し、当初は大興城の名称を長安城に戻し、大興宮を太極宮(たいきょくきゅう)と改めただけで、遷都はしなかった。皇帝が起居する太極宮と皇太子の住む東宮、皇后や女官たちの住む掖庭宮を合わせた範囲が宮城で、東宮は太極宮の東、掖庭宮は西に隣接した。3省6部など主だった官庁は宮城から幅300歩(441m)の横街を挟み、南に隣接する皇城にあった。北周長安城より立地のよい場所に建てられたはずが、太極宮の立地もやはり低地で、快適とはほど遠かったことから、3代目の高宗(こうそう)の663年に太極宮の北東に隣接した高台に大明宮(たいめいきゅう)を、さらに経済的な繁栄を謳歌(おうか)した玄宗(げんそう)の714年には太極宮の東南東、春明門(東門)の内側に興慶宮(こうけいきゅう)を建設。これに伴い、皇帝側近の宦官や高級官僚の住居は、3つの宮城にはさまれた京城東北部に集中するようになった。

 

 北周と隋代の詳細は不明だが、増改築が重ねられた盛唐時期の長安は、南北に11条、東西に14条の、整然と幾何学な道路網が整備され、碁盤目状の各区画は「坊」と呼ばれた。

 

 城内中央を南北に貫く朱雀大街を境に、それ以東は万年県、以西は長安県に属し、それぞれのほぼ中央部に大きな市場が設けられた。これを東市・西市という。富裕層が北東部、下級官人も東部から東南部に居を構えたことから、東市は高級品の専門市場と化した。

 

 対する西市は下層民向けで、西市の北側には西域出身者が多く、南側は庶民街だった。それより南の城壁近くは人口希薄で、建物もまばらだった。

 

 唐代の詩人たちは、好んで100万人という数字を口にしたが、当時の諸記録を照らし合わせると、少々下方修正が必要になる。一説によれば、8世紀半ばの長安城内の人口は30数万人、その他の軍人が10万人前後、宗教関係者は2万から3万人、皇族・宦官・科挙受験者と従者・外国人などが5万余人。以上、50数万人の戸籍登録者のほか、未登録の脱漏者を十数万人と見積もると、総人口70万人程度というのが実数に近いとのこと。当時としては、これでも十分な巨大都市である。

 

 また、韋述という学士が722年に著わした『両京新記(りょうけいしんき)』によれば、当時の長安には宗教施設が非常に多く、僧寺64、尼寺27、道観10、女観6、波斯寺(ぺるしゃでら)2、胡祆祠(こけんし)4を数えたとある。このうち道観とは道教寺院、女観とは道教の尼寺のこと。波斯寺と胡祆祠はどちらも西域由来の宗教施設で、他の文献や現存する石碑などから、キリスト教ネストリウス派景教)、ゾロアスター教マニ教などの伝来とそれらが三夷寺と総称されたことが確認できる。雑多な文化が混ざり合う光景は、唐の国際性を示す好例だった。

 

監修・文/島崎晋

 

(『歴史人』2023年4月号「古代日本の都と遷都の謎」より)