西安金橋国際旅行会社と陝西友聯国際旅行会社のブログ

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五丈原の秋風に乗って高速鉄道は走る 諸葛亮終焉の地で考えた「歴史の眼」

千載の末(長い年月を経た)今も尚なお 名はかんばしき諸葛亮-。日中国交正常化50周年の昨秋から1年にわたり、読者のみなさんと一緒に、との思いで中国大陸を旅した「三国志を歩く 中国を知る」の最終回の舞台は、三国志の華である諸葛亮孔明(181-234)終しゅう焉えんの地・五丈原陝西省宝鶏市)。1800年の時と国境を超えて多くの老若男女を魅了する彼の面影を追った。(陝西省で坂本信博)

 

 

星落秋風五丈原
 成都から約700キロ。中国中部を東西に貫き、大陸を小麦の畑作地帯の北方と稲作地帯の南方に分ける秦嶺山脈(標高2千~3千メートル)の峠を越えて宝鶏市に入ると、車窓から「岐き山ざん骨科医院」という病院の看板が見えた。

 

 「祁山悲愁の風更けて 陣雲暗し五丈原…丞じょう相しょう病篤あつかりき」。詩人の土井晩翠が1898(明治31)年に発表した長編叙事詩「星落秋風五丈原」で詠んだ諸葛亮終焉の地、岐山県にたどり着いた。冒頭の言葉もこの長編詩の一節だ。

 

畑の向こうに見える台地が諸葛亮終焉の地・五丈原だ=7月、中国陝西省宝鶏市岐山県(撮影・坂本信博)
 落星村、東星村など星の字が入った地名があちこちにある。諸葛亮が5度目の北伐のさなか、本陣を構えた五丈原で、54歳で病没した際に流れ星が落ちたことにちなんでいるという。かなたに緑に覆われた細長い丘が見える。「あれが五丈原です」。村民が教えてくれた。五丈原秦嶺山脈の山裾から北に突き出た標高約150メートルのひょうたん形の台地。くびれに当たる最も狭い部分が5丈(約10メートル)しかないため、その名が付いたという。

 

諸葛亮が死去した際に流れ星が落ちたとされる地の東にあるため、東星村という地名が付いたという。彼方に見える台地が五丈原だ=7月、中国陝西省宝鶏市岐山県(撮影・坂本信博)
 つづら折りの道を車で上って五丈原に立つと、黄河の支流・渭い水すいを挟んで諸葛亮軍と魏の司馬懿軍が対たい峙じした地帯を一望できた。

 

 マンションや工場が立ち並ぶ市街地と田園の間を中国版新幹線の高速鉄道が流れるように疾走する。10年前に岐山駅ができ、諸葛亮が死力を尽くしてもたどりつけなかった長安西安市)まで40分あまりで行けるという。距離にして約140キロ。成都からの道のりを思えば、あともう一息だ。長年の疲労がたたって志半ばで倒れた諸葛亮の無念さが、書物や時代劇とは比較にならないリアルな感覚で胸に迫ってきた。

 

五丈原からの眺め。市街地や田園地帯の間を高速鉄道が疾駆していった=7月、中国陝西省宝鶏市岐山県(撮影・坂本信博)
虚実が混然一体
 五丈原には諸葛亮を祭る極彩色の廟びょうがある。入り口で仁王像のように向き合っていた2体の武将像は魏延と...

 

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