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遊牧民がつくった国際都市の“礎” 「隋の大興城」は現在の中国につながる

長安は隋(581~618年)の都である大興城を名前だけ改めたものだったということが分かるでしょう。この大興城を建設したのは隋の建国者である文帝(位581~604年、図②)です。
■京都の街並み
 資料①から分かる通り、巨大な城壁に囲まれた大興城は、道路が直角に交わる計画都市でした。治安維持のために、城内はレンガと壁で囲まれた「坊」と呼ばれる区画に分かれていました。大興城は軍事と政治を優先した都だったのです。
また、宮殿・官庁街・庶民の居住区などが整然と区分けされた都市プランは、日本の平安京、朝鮮の慶州、渤海の上京竜泉府など、周辺諸国都城にも影響を与えました。道路が東西南北に直交する、平安京の系譜を継ぐ京都の街並みを想起してもらえると、イメージが湧くのではないでしょうか。

 

 隋の都城〔大興城〕は、外郭城の大きさが南北15里175歩〔8673メートル〕、東西18里115歩〔1万260メートル〕、四周67里〔3万7520メートル〕、高さ1丈8尺〔5.6メートル〕である。…隋朝は新都の造営に際し、従前の王朝の都城の方式にすべて従うことはできなかったが、城内の街道を区画された畔(あぜ)や直角に交わる碁盤のようにつくり、街中の小路もすべて縄と墨を引いて直交させた。各坊には壁をつくり、壁には門を設け、犯罪者の逃亡や悪事の発生を防いだ。宮殿や官庁・民居・市区も、混交せずに別個につくられている。その時代までの最高の都城造営といえよう。唐の人たちは、隋の都城をうけつぎ、さらに数百年の間、唐の都城として用いたが、新たに宮殿や遊楽地の美観を大きく増加することはできず、ととのった都城計画にいたっては改める必要もなかった。隋の功績は少なくない。